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『忘れられたパンデミック、スペイン・インフルエンザ第2弾』


おはようございます。

 

今日の天気は晴れ時々曇り、最高気温は22度となり穏やかな1日となりそうです。

 

本日4月16日は「チャップリンデー」です。

1889年のこの日、20世紀最大の映画作家・喜劇俳優のチャールズ・チャップリンがイギリスで生まれた。

口ひげ、だぶだぶのズボン、どた靴、ステッキ、山高帽と言う独自のスタイルで社会を風刺し、世界的な人気者になった。

「モダン・タイムス」「ライムライト」と多数の作品を作った。

 

 

さて本日の話は「忘れられたパンデミック、スペイン・インフルエンザ」第2弾のお話です。

 

 

昨日での話でもあったスペイン風邪。

3年の期間を経てようやく終息したのだが、第一次世界大戦中の最中、その間の日本の状況はどの様だったのか。

ご興味のある方はお付き合い下さい。

 

 

「流行性感冒と診断され、直ちに御仮床にお就きになり、以後15日の御床払まで安静に過ごされる」

1918年11月3日の昭和天皇実録の記述だ。

「スペイン・インフルエンザ」は「流行性感冒」と言われ、皇太子なった17歳の昭和天皇も患った。皇室では感染した武田宮恒久王が19年4月に肺炎で死去している。

 

欧米の大流行から4ヶ月ほど経った18年10月ごろから日本でも本格的な流行が始まった。国内では2度の感染爆発を迎えることになるが、「前流行」と呼ばれる時期だ。

22年刊行の内務省衛生局編「流行性感冒」は 「交通頻繁なる都市に発しこれより放射状にその周囲村落を侵襲する常とせり」と記述している。

 

「スペイン風邪」を主題にした国内唯一の書籍、速水融「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」によると、感染はほぼ3週間で全国に広がったと言う。

 

新聞は盛んに「流行性感冒猖獗(しょうけつ=猛威)と報じ、東京では各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった」。

死者の急増で各地の火葬場は大混乱となった。

 

同書によると医療体制の整っていない地方は特に悲惨で、患者の半数以上は治療を受けられない村(青森県北津軽郡)や人口約1000人中970人が感染して70人が死亡、

「一村全滅」(福井県の山間部)と報じられた地域もあった。

 

医療従事者の感染も深刻で、「医者という医者がほとんど風邪で寝込んでしまって動きができず、また壮年の医者が相次いで亡くなった」。

海外と同様、若年性壮年層の犠牲者が多かった。

 

著名人では評論家の島村抱月が感染で亡くなり、女優の松井須磨子が後追い自殺する悲劇が起きた。

前流行は翌19年の夏前には収束した。内務省の記録では患者約2117万人。当時の国民の4割が感染し、死亡率は1.22%だった。

 

そして同年秋から「後流行」がやってくる。毎年12月1日は徴兵された新兵の入営日で、そこから感染が爆発的に広がる。

「この軍隊における罹患(りかん)こそ本格的な「後流行」の点火剤となった」。

 

密閉・密集・密接環境の軍隊は感染の温床で、20年1月の新聞は陸軍の内外の患者約2万6000人、死者約1300人、死亡率5.2%と伝えている。

海軍でも前流行期に軍艦(矢矧(やはぎ))で乗員469人中306人が感染、48人が死亡する惨事があった。

 

後流行は20年夏に収束。患者は約241万人、死者は約12万8000人だった。

感染が前流行の1割に激減したのは多くの人が免疫を獲得したためと言われている。一方致死率は5.29%と4倍以上に跳ね上がった。

 

内務省の記録では全流行期間の総感染者約2380万人、死者約38万9000人、死亡率1.63%とされている。

速水融氏はこれを過少と見て、死者は約45万3000人と試算している。

 

最近の報道では、終息まで最低でも1〜2年は掛かるとの見解も有ります。

早期終息との甘い期待は無くして、早急に時代に会った行動をする必要があると感じます。

 

では本日も頑張って参ります!

 


2020年4月16日 09:50 |



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